「13」 「大舘に、今晃さんを訪ねて」 中根巌(大阪こけし教室機関誌「山河」268号掲載)

17.jpg先日(10月3日~6日)、「山形みちのくこけしまつり」に出かけて行き、遠刈田ロクロこけしまつりや懇親会、そして、弥治郎を廻って来ました。弥治郎こけし村の吉紀さんと真由美さんの工房で、鳴子で修行中の故小島俊幸さんの娘さんにお会いした。津軽にまたまた、新人工人さんが誕生か!
3日夜は、休業中の高橋通さんと順子さんご夫妻と夕食を共にした。審査会場では、審査員の箕輪新一さんや国府田恵一さん、そして、渡部圭吾さん、中根巌さんともお会いできた。今晃さんのこけし図譜「木おぼこ・今晃」の制作、発行については、みなさん方々には、いろいろとご教授や励ましをいただき感謝をしています
大阪こけし教室機関誌「山河」268号(平成26年9月)に、中根巌さんが「大舘に、今晃さんを訪ねて」と表題されて、今晃さんの近況を報告されていますので、転載をさせていただきました。
「大舘に、今晃さんを訪ねて」  中根巌
今さんのこけしが好きで、平成6年ころからカラーコピーを送り、古津軽の復元作を毎年送ってもらっていた。今さんの復元こけしは原を精緻に写すのではなく、今晃流に理解し、昇華させる手法で、思いもよらぬ傑作が時として生まれることは、皆様承知のことと思う。温湯は呑み友達の故佐藤佳樹さんがいたので、夏場を中心に、平成7年から毎年出かけていたが、今さんは何故か近寄り難い印象があり訪問していなかった。その間も、手紙を出し、直接は送ってもらっていたが、平成10年前後に初めて嶽を訪れたと思う。饒舌ではないが寡黙でもなく、お茶を細やかに入れてくれ、業界の流行に左右されない芯のしっかりした人という印象を持った。その後、古品こけしの収集も増え、それらを復元してもらう為に嶽通いを続けた。
今さんはいつも淡々と季節に溶け込み暮らしておられたが、平成21年頃から「尿酸値が高く、足が痛い」と、ため息をついておられた。平成24年頃から足の状態は悪化し、骨髄梗塞という難病を発症したのであった。それでも、平成24年11月と25年1月の大阪こけし教室のお土産こけしと皆勤賞こけしを制作してくれ、快方に向かうのかと淡い期待を抱いたが、平成25年3月からさらに悪化し、長期入院となった。この時期は私も随分落ち込んだ。今さん還暦の年で、さまざまな今さん関連のイベントが組まれていたのに。そうこうするうちに、30年住んだ嶽を下り、「故郷大舘(実家)へ戻る」と、今さんから今年になり便りがあり、「症状はあまり変わらない」とあった。坂入良喜さんからもメールがあり、「5月の連休明けに大館に引っ越し、体調もかなり回復し、奥さんが綱を引き、二人挽きで小寸こけしを制作開始している」と、、、。「これは行かなくてはならない。何よりも今さんと会って喋りたい」という強い衝動に駆られ、今年の7月中旬に、ついに約2年ぶりに再会を果たすことができた。
今さんは、「片足に麻痺は残ってはいるものの、顔色は良く、声も弾み、何か前の今さんに戻った」と感じた。動力轆轤も工事が終わり、何時でも動かせるのだが、二人挽きに目覚め、原点回帰し、小寸ものの本人型を作っていた。「作りたいものを作る」、如何にも、今さんらしくて良いではないか。病気になっても、ますます進化している61歳の目の前の人に会えて嬉しかったし、時の積み重ねの大切さを身もって教えて貰った気がした。二人挽きなので、夫婦の息が合わないと、鉋は切れないし、時間も動力轆轤の3倍は掛かることだろう。しかし、回転を落とした木の温もりを感じる木地と自然の返しロクロ線は、第四期の今晃ピーク期到来を感じさせてくれた。
「あるがままに、全てを受け止め、見栄を張らず、卑下もせず」、そんな作品に、私には見える。

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