晃さんは、昭和58年5月31日、弘前市禰宜町から嶽温泉開拓農家集落に移住をされ、温泉土産こけしを意識されて、通称「笹竹こけし」を制作された。
この「笹竹こけし」誕生秘話は、清俊夫さんの「今晃さんのこけし」(14)に以下のように書かれている。「このこけしは、金次郎型の顔に、地元の名物、地竹の子の笹の葉の胴模様を、笹竹の茎を意識した胴に配したものです。胴底には、『嶽今晃』、胴裏には『嶽温泉』の墨書があります。私には、津軽の風土にマッチした良いこけしに見えますが、観光客には殆ど売れなかったようです。
今さんは、58年5月31日に弘前市禰宜町を離れ、嶽牧場と呼ばれている開拓農家集落に移り住みました。しかし、轆轤用の配電工事の遅れで、嶽でのこけしを製作し始めたのは、6月の末で、私が『嶽今晃』の署名の入ったこけしを入手したのは、6月27日でした。それからすぐに、本来の用途である温泉土産を意識して作られたこけしが、この笹竹こけしになります。、、、今さんのこけしは、あまりにも昔の津軽的なものであって、今の津軽の人々には違和感が強すぎるのかもしれません。、、、『あるべき津軽こけし、あったはずの津軽こけしを幻視して、それを次々に現実化して行った。』と私は考えています」とあります。
桑原金作さんは「今晃のこけし」の中で、「この笹竹こけしがなければ、『今晃こけしコレクションにはならない決定的に必要なこけし』という超貴重品の稀品である」「笹竹こけしは、嶽温泉おみやげこけしとして創意工夫して、竹の節を胴形に挽き上げた本人型こけしである」と述べられる。金次郎風の顔は優しく、別趣に表現されており、迫力があり、土の香りも強く、手絡描きが良く似合っている。眉太く、目は上瞼の描き方が素早く長い、眼点の打ち方が三本の横鬢と共に誠に美しい。鼻は猫鼻ですが、良く見ると独特な癖で描かれている。口は赤の二の点で表現されて非常に珍しく、今すぐ話をしたい様な口元で楽しく見える。非常に美しいフォルム、木地仕上がりになっており、特に竹節の表現は見事であり、ロクロ線赤と青で、黄胴の竹帯は青で描いている。下地の黄色に青の葉を描いたのが緑色で現れ、赤は赤でも白胴の赤より厚く見える。白胴は、赤は赤で、青は青とハッキリ分かる。今さんは面相筆を使用せず、普通筆で描くので、こけしの迫力や野性味、泥臭さの表現は、その他の工人に見られない独特の美しさがある。
また、59年2月5日付け、東奥日報記事では、「岩木町の嶽高原、ここで、大鰐こけしの流れを汲みながら、全く新しい型のこけしが産声を上げて7ヵ月になる。名付けて岩木こけし。」とある。そして「、、、、伝統にとらわれず、独自の今さん流こけしの開発に打ち込んだ。『おみやげ的な要素がなければこけしではないと思います』というのが信条、この発想から、従来の形を度外視して、力を入
れているのが表情豊かなこけしだ。笑ったり、怒ったり、泣いたり、『人間の喜怒哀楽の表情こそが人生である』とし、これら心の内面をこけしに盛り込むのが今さんの最終目標となった」と、その抱負を語っておられます。弘前市内に居住されていたときから、「津軽の本来あるべくこけしを求めて!」「津軽こけしが生み出されるべく彼の地を求めて!」と、本人型こけしへの希求、いろいろと模索や始造をされておられたようである。特に、嶽温泉開拓地への移住は、「嶽温泉土産のこけし」製作へと進み、「笹竹こけし」を生み出されたようです。その思いは、留まることなく湧き溢れ、今晃の世界で昇華し、幾多の本人型こけしが現出していったようである。しかし、、、、、、、、、