「凜雪」(岩木山)画・照沼光治 (照沼氏は、大学時代の友人・画家です。嶽、岩木山風景を描いてもらいました。)
平成23年3月は、私の退職であり、退職記念こけしとして、①などのこけし3種、30本ほど作っていただいた。6月にはお訪ねし、今さんにお任せの退職記念こけし本人型②の3本をいただいた。太胴でどっしりと色鮮やかに!山野草好きな私に、今さん宅周りに咲いている野花のようです。8月に、沼田元気さんの「こけし時代創刊号・津軽特集」が発行された。そこには、今さん特集のような各所に今こけしを配置された内容でもあった。しかし、今さんは8月に入り、下半身の痺れやマヒ状態を発症し、寝込んでおられた。病院嫌いの今さんは、なんと!!一ケ月も横たわったまま、褥瘡も病み、我慢できずに40日ほど入院をされた。結果は、左足首からのマヒ、下半身の痺れが残った。その間、こけし製作はできず、12月に③のこけしが、「病気見舞いのお返し」として送られてきた。胴模様は、「残しリンゴ」といって、津軽では「野鳥の餌がなくなる冬場のために、リンゴ収穫で、木々に数個残して、野鳥の餌としている」、そんな農家の方の心温まる優しさがあります。こけしの表情は、「病気から回復、再起を目指す」キリリとした厳しい決意が見える。その後は、療養に努められ、体調の良いときにのみにこけし製作をされていた。
25年3月には、かなり体調を崩され、寝込んでおられたようです。4月12日、④の「坂入ボックス」のこけし群と下記の手紙が送られてきた。④のこけしには、病に立ち向かう今さんの決意や思いが伝わってきます。今さんは、4月23日に還暦を迎えられ、斉藤純廣さん企画(津軽こけし館とカメイ美術館でのこけし展など)などを楽しみにされていた。
6月下旬、奥さんから「今が入院をした」との連絡があり、7月に見舞いに伺う。「木おぼこ・今晃」の「今晃さんのこけし遍歴」に、その様子を書いた。(「ベットに横たわっておられた今さんが、筋肉のそげ落ちた両腕を震えながら挙げられ『坂入さん!もう、こけしは作れないヨ』と、一筋の涙を流された。私には、今さんが十代の頃、病床の小松五平さんを訪ねられ、『こけし職人になるんだ!』と決意された場面が蘇える。『これからが勝負だ!』と語っておられた今さんの気持ちを思うと、たまらない。
9月初旬に退院、自宅での療養をされておられるが、嶽での、豪雪の中での生活は困難と判断された。また、「こけし制作も難しい」と木地や工具なども整理をされ、来年春には秋田の大舘市に転居を予定されている。今さんのこけし人生40年、嶽に30年間、この地を発たれる覚悟をされた今さんのお気持ちを鑑みると、ただただ、寂しさのみが募る。
私は、今さんのこけしを集大成した『木おぼこ・今晃』―今晃こけし図譜―を制作、来年春、今さんの61才の誕生日4月23日に発行すべく進めていたが、この様な事態になり、困惑と混乱の中で、万感の思いを込めて制作する。今さんには、ぜひとも、健康を回復されて、また、こけしを作っていただきたいと希うものである」)
正直、今さんは重篤状態であり、この時は、「これは!」と、大いに心配をし、図譜製作発行を急いだのです。
12月、8ケ月後に、「病気見舞いのお返し」として送られてきた⑤の鉈こけし3本は、如何にも今さんの心境、心象を醸し出したような表情をしている。年が改まった26年正月には、⑥の「凜」とした力強い鉈こけしに、心境新たに秘めた熱情が現れている。そして、機械ロクロがない現状の中で、こけし製作への尽きない思いは、⑦の二人挽きロクロ作を生み出されていた。スッポリと雪で埋まった家の中で、奥さんと二人、「ジ~!」と春を待っておられるようでした。4月、⑧の嶽作最後のこけし=図譜発行記念のこけしには、残雪の中、「バッケ(蕗の薹)」が芽生えている。
大館に移住をされた後、⑨の大館初作(5月)は、奥さんとの二人挽きロクロ作伊太郎型小寸であった。10月には⑩の機械ロクロ初作と!新たな大館時代を彷彿させるこけし群となっている。⑪は、今年(27年)作られた初孫誕生祝いこけしです。赤ちゃんらしい「ずんぐり、むっくり」した形態に、円らな表情です。胴模様は「何の花か分からないが、裏道にあった草花?未来を燃えるような想いで!!」ということらしいです。如何にも、今さんらしい仄々としたこけしです。
囲炉裏にあたりながら、今こけし1本、1本を手に触れていると、その当時の今さんの状況が思い浮かびます。今さんのこけしには、その時々の今さんの心象風景がそのまま現れているようです。