加賀谷憲介氏の『「嶽こけし再論」にこたえて』を発見!
「今晃(こけし)の文献と資料」 http://sanejiro.sakura.ne.jp/date.html にあるように、昭和58年、秋田こけし会の機関紙「秋田こけし会通信」において、今晃さんのこけし、特に、本人型こけし(清氏曰く「創作的伝統こけし」)を巡って論争がありました。清俊夫氏の「嶽に移った今晃のこけし」(46号)に始まり、加賀谷憲介氏の「今晃こけしへの期待」(47号)、清氏の「嶽こけし再論」(48号)「嶽こけし再論(続き)」(50号)そして、加川弘士氏の「今晃のこけしには夢がある」です。三者三様に、それぞれの今こけしへの見方などが述べられています。
今回、加賀谷さんが秋田こけし会通信において発表されなかった『「嶽こけし再論」に答えて』(59年7月2日)を加賀谷さんの私家本「こけし徒然」において発見しましたので、ここにその全文を掲載します。
「嶽こけし再論」にこたえて
-秋田こけし会通信50号の清俊夫氏の論にこたえてー
加賀谷憲介(昭和59年7月2日)
私は、こけしを理論的に分析解明して楽しむよりも心情的に見て楽しむタイプであり、また、清氏が述べているように現象を分析解明する方法論などという学問的なことについてはまったくの素人であるので、理論的に見た場合、矛盾した点があるかもしれないが、その点については御寛容頂きたい。
通信50号11頁で「どのこけしとどんな特長について、そのように捉えられ、評価されたのかを明示してほしかった」と述べているが、具体的に個々のこけしについて述べたものではなく、嶽移住後に生まれたこけし、所謂、同氏のいう「創作的伝統こけしとでも呼ぶべき一群のこけし」について、私の好みにあったこけし、私の感覚にそぐわないこけしも含め、総論的に述べたものである。
同氏は、「ともすれば、、、中略、、、誤解を招き易いこれらのこけしの在りように、、、」に、大分こだわりをもっているようだが、今晃の意図するところがどうであれ、彼の手によって作りだされたこけしだけが、今晃を評価する唯一の材料であってみれば(特定の立場の人を除外して一般的に見た場合)、当人にとっては迷惑なことかもしれないが、そのこけしを対象としてさまざまな推測や憶測を交えながらいろいろな意見が出てくるのは当然であろう。そうであるとすれば、一見、雑な仕事と見られるような木地の仕上げもマイナス評価の材料となるのではないだろうか。今晃のこけしが好きであるが故に、そして、無口で信念の固い人柄も好きであるが故に、彼の意図に反した誤解をうけることを案じているのであって、今晃の指向する方向について危惧の念を抱いたり、否定したりするものではないことを理解していただきたい。
「職人の腕を見る」とよく言われるが、それは職人の手によって作り出された製品のでき具合を見て、技術の巧拙を論ずることであることは論を俟たないことである。こけしは木地職人の手によって作りだされたものである以上、単に、描彩についてのみ評価されるべきものではなく、形や木地仕上げなどについても評価されるべきものであることは前記のごとく当然である。ペーパー、木賊、木蝋などを使わないことについては、彼の信念によってやっていることであって、第三者がとやかく言うべきことではないし、また、言う意志もない。唯、言いたいことは、ザラザラした感触のものよりも、よく切れるバンカキ(ウス刃)で、ある程度であっても表面を滑らかに仕上げられた方が、よりよく木肌の温もりを私達の心に伝えてくれるのではないだろうか。また、そのことがより多くの人々に親しまれることにつながるのではないだろうかということである。ましてや、カンナの痕跡が残っていたり、段差があったりする木地は見た感じもみにくく、木肌の温もりも半減するように感じられるのではないだろうか。
よく「昔のこけしは、、、、」と言われるが、これは殆ど描彩について言われることであるが、木地についてもあるていどの肌触りのよさを感じさせ、また、見目よく仕上げられたものが多い。二人挽きロクロや足踏みロクロなど、現在の動力ロクロに比しても、回転数が極端におそいもので挽いても、なおかつ入念な仕上げがなされているのは、それを直接手にして、ものの用に用いたり、楽しんだりする人々の心を大事にする職人の良心が生きていたからではないだろうか。同氏が言われるように、ピカピカツルツルでなければならないほどは考えていないが、前記の如くある程度の配慮をして欲しいとおもうのである。
美は必ずとも、綺麗事ではない。几帳面に一点一画をおろそかにせず、キチンと定規で線を引いたようなものではいけないなど、野暮なことを言う気は毛頭ない。にじみや余韻も美の要素として大切なものである。というよりも、日本的な美の構成には欠かすことのできない要素として認識しているが、人それぞれに好みの違いがあり、感覚的にも異なる以上、一様に論ずることは危険なことはないこと、言わざるをえない。
凡そ、美意識とはなど、あえて、私ごときものが大上段に構えて言うまでもなく、主観的なものであり、客観的なものではないからには、社会的にみて美的価値の高いものでも、それに関心のない人では猫に小判的存在のものでしかない。例えば、天才ピカソの絵を見ても私には何が何だかさっぱりわからない。従って何の感動も湧いてこない。ピカソの天分を信じ、その高度な芸術性に信服している人々からみれば、美について無智の人間としか映らないであろう。しかし、美的観念は個人の問題であればこれも止むを得ないことであり、いずれにせよ、趣味は好みの問題であれば、それほど目くじらをたてるほどのことではなく、和やかに談笑し楽しむところに、趣味人としての大らかさがあるのではないかと思われるが、いかがなものであろうか。
「稚拙、素朴と粗雑、下手とは紙一重の差で表現されている」については、47号に述べたように「上手は上手なりに、下手は下手なりに、自由自在に筆を使い分けることのできる才に非凡なものを感じさせるが、この点にこそ今晃の真髄があると同時に陥穴(47号では、「欠陥」とあるのは誤植)があるのではないだろうか」と述べているように、私も「粗雑とか下手とか」と思っているわけではなく、唯、あくまでもそのように受け取られる傾向(現実にそのような声を耳にするので)があると言うことを述べたものであり、「上手の手から水の洩れることのないように」と願うあまりの苦言であることを理解していただきたい。
「傲慢という形容は理解できないものである。傲慢とはこけしの評価に用いる言葉ではない。」とし、更に、「今君を傲慢な人柄と見なし、その評価をこけしにまで無意識に一般化させてしまったのであろう」と、「到底承服しかねる」といった激しい口調で反論されているが、こけしの世界では、「こけしを通して人柄を理解する」、あるいは、「人柄を通してこけしを理解する」ようなことは日常ありえることで、この相互理解という面からみれば、こけしの評価がまだ見ぬ工人の人柄を想像して評価する場合も決して少なくないのであって、一方的にこけしの評価に用いる言葉ではないと断言するのは、「論語読みの論語知らず」の諺にあるように、事の真意を深く理解せずに、言葉の表面だけに捉われた発言で、少し、早計ではないだろうか。
まだ、自分の意とするところを充分に伝え得ないもどかしさを覚えつつ、最後に一言だけ述べてみたい。
今晃を土俵の外において第三者が相撲を取ることが、果たして、今晃自身にどのようなメリットがあるのか、むしろデメリットの方が多くあるのではないだろうかと考えると、どうも、ペン先が鈍ってしまう。今晃のこけしが、こけしの世界に小石を投げた。その波紋が現在のこけし界に好影響を与えることを期待しつつ、この問題について筆を折りたい。
(以上、反論を書いてみたが、周囲の人達からこれ以上論争を拡げるとかえって、マイナス面ばかりが出てくるので、止めた方が利口だよといわれ、この稿をボツにすることにした。)