「162」 「今晃さんと木地挽き師匠、大類連次さん」

 今晃さんの最初の木地挽き師匠は、大類連次さんであったようです。今晃さんのこけし図譜「木おぼこ・今晃」(光芸出版)の「今晃さんのこけし遍歴」では、『昭和47年(昭和46年の間違い)、高校3年9月、新聞記事で「大湯のこけし後継者がいない」と知る。「自然に生きたい」と考えており、何か「ピーン」と来るものがあり、その日のうちに訪ねた。工房には土日に通い、卒業と同時に住み込み就職をした。木地挽きを大類漣次工人に教えてもらったのは数ヶ月だけで、後は、独学であった。

 こけし(「A019」)は簡単に作れた。木地挽きのみを行い、描彩は全て奈良さんが描いていた。懇意にしていた大湯温泉「花海館」にあった長谷川清一、小松五平こけしを見よう見まねで作った』(「A001」「A017」)とあります。

 橋本正明さんが主宰されているネット上の「Kokeshi Wiki」http://kokeshiwiki.com/ では、「大類連次は、明治42年4月28日、秋田県雄勝郡川連村に生まれた。15歳から高橋兵治郎、兄の樋渡治一について立木木地を習得したが、漆器販売業に転業した。昭和34年、3ヵ月ほど、奈良靖規の工場で働き、靖規が描く鳴子型こけしの木地を挽いた。昭和44年、川連にてふたたび木地業に戻った。昭和48年9月27日没、 行年65歳」とあります。

 また、佐々木一澄さん著作「こけし図譜」(誠文堂新光社発行)の「工人・今晃さんの話」では、昭和46年秋、『十和田工芸所には、秋田県の川連から大類連次工人が職人として来ていて、その挽く姿を見て、「ああ、なんだか良いなあ、こんな風にずっと作って生きていくのも良いな。工人か」と感銘を受け、こけしの道で生きていくことを決めました。とはいえ、大類さんに弟子入りしたわけではありません。挽いている姿を見ているだけで、気がつくとだんだんとこけしの基本は挽くことができるようになりました』とあります。

 その後、本田功さんの紹介で佐々木金一郎さんに弟子入りしますが、大鰐への転居日に死去され、葬儀の場(昭和50年1月30日)で、長谷川辰雄さんに弟子入りされた。本田さんとの同居(和徳時代)、鳴子の岡崎斉司さんへの弟子入り(昭和53年3月末)紹介など、節目節目にお世話になったようです。そして、3年半、斉司さんの下、鳴子で修業をされた。帰弘されて、「こけしの館」で、長谷川健三さんや本田さんと仕事をされていた(館時代)が、その後、禰宜町、嶽への移住となった。

 最近、制作中の「木おぼこ・今晃」―今晃のこけし図譜Ⅱ―の資料を整理、編集していて、今さんに大類連治さんとの関係を、「木おぼこ・今晃」の話と「Kokeshi Wiki」の話、「こけし図譜」の話を示してお聞きした。今さんからは、「昭和46年秋(高校3年生で、土日にのみ通う)、大類さんは奈良靖規さんの工場で、下木地挽きをしていた。冬前に川連に帰られ、ほとんど習うことはなかった。昭和47年春に一月ほど来られ、刃物の作り方などいろいろと教えてもらった。その年のお盆に川連を訪ね、大類さんの案内で、木地屋を見学した」とのお返事がありました。大類さんが、「昭和48年9月に65歳で亡くなった」ことを初めて知られ、「まだ若かったとは、少し、驚きました。プライドで生きている最後の職人という風情に少し憧れました」とありました。

          「奈良靖規こけし工場・十和田工芸所」

          「読売新聞・昭和47年1月25日」

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 上記内容は、東京こけし友の会機関紙「こけし手帖」令和3年1月号(720号)に掲載していただきました。

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