「101」 禰宜町時代の本人型こけし摸索

今さんは、昭和57年9月、「こけしの館」を辞し、伴侶を得、新居を禰宜町に構えられ、「禰宜町時代」が始まった。しかし、電気工事の遅れで、ロクロが使えず、初めて鉈彫りこけし(「C073」「C077」)を作られた。この様子は、ブログ「96・菊模様の金次郎風鉈彫りこけし入手」に詳しく書いていますので、ご覧ください。

禰宜町では、伝統的津軽系の「伊太郎型」や「幸兵衛型(ロクロ模様)」「金次郎型」などいろいろな伝統型こけしを精力的に、意欲的に挑戦されていた。また、本人型(「C013」「C028」)への模索は、伊太郎型や辰雄型などにいろいろな模様を描き、新たな本人型創出など試行錯誤されておられたようです。清俊夫さんの序文には、『伝統的なものに加え、構想と試作を重ねてきた創作伝統こけしが生み出された。私は、「今さんの創作伝統こけしは、津軽こけしの伝統形成期にはこのようなこけしが作られたはずだと考えられるもの、津軽の風土に根ざしたものを作ることだ」と考えている。この禰宜町時代に作られたこけしは、あまやかで気品あふれる作品であったように思う。しかし、翌2月、3月の後期に入ると、次第に嶽時代に通じる強烈群のこけしに橋渡しをする小寸こけしも生み出されていく』とあります。

館時代の終焉に生まれた「B023」の菊模様は、昭和58年7月の嶽移住直後に作られた嶽温泉お土産用としての「笹竹こけし」を創始された。そして、「C046」の小寸はいわゆる「ドンコロ」こけしを生み、島津型笑い口へと変貌していった。抑えきれない情念の沸騰、発露は「嶽温泉・今晃」時期を生み、津軽の伝統こけしを今晃の世界で昇華した「嶽・今晃」時代の本人型(「創作伝統こけし」)となって出現したものです。

今さんは、津軽的なこけしを生まんがために自らの生活基盤を、 敢えて、弘前市内の街中から、岩木山麓の豪雪地、嶽温泉の開拓地に移住をされたのです。(右下写真は、嶽時代、厳冬期の今さん宅入り口です。)

 

*1月の「木おぼこの会」第7回頒布予定は、今さんの都合で、2月中頒布になりました。

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