「221」 今晃さんからの手紙・②「盛秀型こけし」

 「木おぼこ・今晃」―今晃のこけし図譜―には、今晃さんが作られた盛秀型こけしが掲載してあります。今さんは盛秀太郎さんとの師弟関係はありません。その今さんの盛秀型こけし製作において、かなりの批判がありました。伝統こけし界には、師弟関係のない人がその系統のこけしを作ることはタブー視されることがある。図譜制作に協力的な方々から「図譜に盛秀型こけしを掲載するのは反対だ!」と非難、絶交された。一部こけし会からは図譜購入や販売を拒否された。逆に、賞賛された方々も多くおられたのである。(このHPのブログ「111・盛秀型こけしと盛秀風こけし」を参照)

 今さんからのハガキには「盛秀風こけしについて本に載せるのどうかなということで、確かにいろいろと問題があるとは思いますが、つくったのは事実でして、結果はどうなったかということで、けして、盛秀に恥をかけていないと思っています。もっともこれで商売をするつもりはありませんので、たのまれてもつくるつもりはありません、ガタガタいわれるようなら盛秀風は、載せないでかまいません。今晃オリジナルをメーンにしていただければよろしいかと」でした。

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 西田峯吉さんは、著書「こけし・伝統と美」では、伝統継承のし方として「①父子・兄弟間の継承、②師弟間の継承、③復元における継承、④触発による継承の四種を上げています。橋元四郎平さんは「木の花」9号の「伝統と復元論」において、「③復元における継承、④触発による継承」を師弟関係のない人の継承をより具体的に指摘されて展開された。また、以下掲載の「木の花」28号の「こけしの制作販売の許可権」をご覧ください。

*橋元四郎平さんの「こけしの制作・販売の許可権」(「木の花」28=昭和56515日)より)

 最近、物故工人の子孫が、物故工人の型のこけしを作っている他の工人に対し、無断で製作販売をすることの禁止を求める例がよくみられる。中には、全くこけしを作っていないのに、工人の子孫であることのみを理由として異議を唱える例すらあるようである。

 いったいこれはどういうことであろうか。およそ、こけしの「型」を、現行の法律で保護されるべき財産権―しかも排他的な権利―とみることは無理であろう。それなのに、なんらかの権利があるように考える人が少なくないのは、一つには、「伝統こけし」の「伝統」の概念を誤解しているためではないだろうか。

 私はかねがね、こけし程度の小工芸に、ことさらに「伝統」を強調したり、概念を明確にしないままで、こけし伝統論を展開する風潮に対して批判をしてきた。伝統こけしであるがために、あたかも製作販売の許可権が世襲的に相続されるかのように思い、行動する人がいるのをみると、こけし伝統論の悪い影響の表れと思わざるを得ない。

 こけしに伝統があるとすれば、その伝統とは、もとより一個人の新規な発明の成果ではなく、師弟の工房の共同作業のなかで、長年にわたり形成されたものである。多少の創意工夫はあっても、それ自体、前時代の共通遺産を継承し、それに触発されているのであって、その結果は決して、一個人にのみ帰せられるべきものではない。同時に、単に子孫であるゆえをもって、当然に権利として相続されるというものでもない。

 伝統こけしであるから、直系の子孫に、その方の制作・販売権が当然専属するというのは、根拠のない誤った考えである。勿論、一般的に、師弟関係がある場合に、弟子たる者が、師匠の意に反して勝手ななことをしてもよいというわけではない。ただ、この点は多分に道義と常識の問題であり、法的な権利義務の領域ではないことは認識すべきである。

 さて、西田峯吉氏著「こけし 伝統と美」によれば、こけしにおける伝統継承のし方として。1父子・兄弟間の継承、2師弟間の継承、3復元による継承、4触発による継承、の四種があり、3が狭義の「復元」であって、これは、対象となるこけしの作者と血族関係や師弟関係をもたない工人が、伝統の継承を目的とし、模倣の繰り返しを手段とする行為である、という。

 右の分類のし方について、かつて批判を述べたことがあるが、その点は措くとして、西田氏の論に従えば、血族や師弟の関係のない工人による復元も、伝統継承のし方の一つであることは疑いない。そうとすれば、復元をする工人にたいして、対象こけしの作者の子孫が、伝統こけしの継承者であることを根拠として、制作の差止めを請求するのは、「伝統継承論」そのものに反する誤りをおかすものというほかなかろう。

 この点において、「こけし手帖」が吉田昭氏の「御挨拶」という一文を、何らのコメントもつけないで、掲載しているのには疑問を持つ。東京こけし友の会は、右のあいさつ文について、賛否いずれかの態度をとるのかを明確にする責務があろう。

*「こけし手帖」237号昭和55年12月号」の「会員・サロン」に、吉田昭さんの「御挨拶」が掲載された。「今般、東京こけし友の会の小野滉様の仲介により木村祐助師匠と、私が製作販売の事柄について、和解をいたしました。、、、、、、尚、私は木村祐助師匠の父の師匠故新井金七師の残された「桜くずし」「重ね菊」系について製作販売の許しをいただきました。、、、、、、」です。

*鳴子の滝嶋茂さんは、師匠高橋盛雄さんの許可を得ないで、「勘治型」を製作し、それが知れ、S工人さんに殴られ、鼻の骨を折った。その後は、勘治型制作はしなかった。兄弟弟子の柿沢是隆さんは「勘治型」を作っていました。

・盛秀太郎さんは、秀太郎型製作は弟子の佐藤善二さんには許可せず、血縁や直系の弟子(奥瀬鉄則さんと美津雄さん)にしか許可しなかった。だから、善二さんの弟子さんなどは未だに盛秀型こけしを製作することはされません。

・盛秀型こけしには、津軽系の工人さんに限らず、挑戦製作されている工人さんは多い。当然署名はなく、愛好家の秘蔵となっている。その点、今さんは全てに署名をされている。

・高橋忠蔵さんは「こけし職人だから注文があれば作る」と、弥治郎型の梅模様こけしを作っていた。(直系の佳隆さんや通さんも、忠蔵さん継承として作ります。)小椋久太郎さんは「盛秀型のこけしは俺にだって作れる」と、署名入りで制作販売をされた。その盛秀型はあまりにも、巨匠久太郎さんの独特なもので、黙認をされていたようです。

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